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瞰望(かんぼう)

わが瞰望は
ありとあらゆる悲愁の外に立ちて、
東京の午後四時過ぎの日光と色と音とを怖れたり。

七月の白き真昼、
空気の汚穢うち見るからにあさましく、
いと低き瓦の屋根の一円は卑怯に鈍く黄ばみたれ、
あかあかと屋上園に花置くは雑貨の店か、
(新嘉坡の土の香は莫大小の香とうち咽ぶ。)
また、青ざめし羽目板の安料理屋の窓の内、
ただ力なく、女は頸かたむけて髪梳る。
(私生児の泣く声は野菜とハムにかき消さる。)
洗濯屋の下女はその時に物干の段をのぼり了り、
男のにほひ忍びつつ、いろいろのシヤツをひろげたり。

九段下より神田へ出づる大路には
しきりに急ぐ電車をば四十女の酔人の来て止めたり。
斜かひに光りしは童貞の帽子の角か。

かかる間も収まり難きは困憊はとりとめもなくうち歎く。
その湿めらへる声の中。
覇王樹の蔭に蹲みて日向ぼこせる洋館の病児の如く泣くもあり。
煙艸工場の煙突掃除のくろんぼが通行人を罵る如き声もあり。
白昼を按摩の小笛、
午睡のあとの倦怠さに雪駄ものうく
白粉やけの素顔して湯にゆくさまの芸妓あり。
交番に巡査の電話、
広告の道化うち青みつつ火事場へ急ぐごときあり。
また間の抜けて淫らなる支那学生のさへづりは
氷室の看板かけるペンキのはこび眺むるごとく、
印刷の音の中、赤き草花凋え、
ほどちかき外科医院の裏手の路次の門弾は
げにいかがはしき病の臭気こもりたり。

(いま妄想の疲れより、ふと起りたる
薬種屋内の人殺、
下手人は色白き虚勢者の母。)

何かは知らず、
人かげ絶えてただ白き裏神保町の眼路遠く、
肺病の皮膚青白き洋館の前を疲れつつ、
「刹那」の如く横ぎりし電車の胴の白色は一瞬にして隠れたり。
いたづらに玩弄品の如き劇場の壁薄あかく、
ところどころの窓の色、曇れる、あるはやや黄なる、
弊私的里性の薄青き、あるは閉せる、
見るからに温室の如き写真屋に昼の瓦斯つき、
(亡き人おもふ哀愁はそこより来る。)
獣医の家は家畜の毛もていろどられ、
歯科医院の帷は入歯のごとき色したり、
その真中にただひとつ、研ぎすましたる悲愁か、
冷き理髪の二階より、
剃刀の如く閃々と銀の光は瞬けり。

あらゆるものの疲れたる七月の午後、
わが瞰望の凡ての色と音と光を圧すごとく、
凡ての上にうち顕る「東京の青白き墳墓」
ニコライ堂の内秘より、薄闇き円頂閣を越えて
大釣鐘は騒がしく霊の内と外とに鳴り響く。
鳴り響く、鳴り響く、……

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解説

九段下~神保町~御茶ノ水~神田界隈の風物を点描した詩です。東京人なら 情景が浮かびやすいと思います。最後のニコライ堂の鐘が鳴り響く描写は 圧巻です。

昔ニコライ堂の近くでバイトしたことがあったので、なおさらしみじみし しました。

最近実装された「Googleストリートビュー」では、まさに 道を歩いているような感覚で町々の様子がグリグリ動かせるようになってます。いい暇つぶしになります。