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北原白秋について

北原白秋(1885-1942)。詩人・歌人。童謡作家。
1885(明治18)1月25日福岡県山門(やまと)沖端町(現柳川市)55-1 酒造業北原長太郎の長男として生まれる。本名北原隆吉。父長太郎。母シケ。

別号射水。北原家は江戸時代以来柳川藩のご用達で油屋や古問屋の屋号で海産物問屋として知られる旧家であったが、白秋の父長太郎の代から酒造業に転じた。酒銘は「潮(うしお)」

柳河(のちに柳川)地方は、水路が縦横に走る古風な水郷であった。 またキリシタンや南蛮文化をいちはやく取りいれ異国情緒豊かであった。白秋はそんな中多感な少年時代を過ごした。

1891年(明治24)矢留尋常小学校入学。近所の内山田雲畦に書を習う。

1895年(明治28)矢留尋常小学校を卒業し柳川高等小学校に入学。日本の古典や翻訳小説を読み始める。

1897年(明治30)伝習館中学入学。白秋の号で当初雑誌「文庫」に短歌や詩を投稿。選者の河井酔名に認められる。

1901年(明治34)沖端の大火で酒蔵燃える。学友と文学会を起し、回覧雑誌「蓬文」を出す。

1904年(明治37)この年から時に「薄秋」の号を用いる。親友中島鎮夫、ロシア密偵の疑いをかけられて自刃(「たんぽぽ」)。このことで白秋は詩人として立つ決意をかためたようである。中学を中退して上京。早稲田大学英文科予科に入学。同級に若山牧水、土岐善麿。

1905年(明治38)早稲田学報の懸賞に応募し長篇詩「全都覚醒賦」が一等に当選。

早稲田大学はすぐに中退し与謝野鉄幹主催の新詩社に入る。詩・短歌を発表。「明星」新人の筆頭となる。吉井勇、与謝野晶子、木下杢太郎、石川啄木、平野万里らと交わる。森鴎外、上田敏、蒲原有明、薄田泣菫ら先輩から注目される。

1907年(明治40)夏、鉄幹、杢太郎、勇、万里らを九州に招き、郷里柳川をはじめ平戸、天草などを周遊(「五足の靴」の旅)。キリシタン・南蛮文化に関心を持ち、杢太郎と作詩(「邪宗門秘曲」)。南蛮文学の先駆けとなる。

同年冬、森鴎外の観潮楼歌会に出席。伊藤左千夫、斉藤茂吉、古泉千樫ら根岸短歌会の歌人と知り合う。

同年末、吉井勇、木下杢太郎、長田秀雄らと新詩社を脱退。官能的象徴詩を発表し始める。

1908年(明治41)杢太郎、勇、秀雄、画家の石井柏亭、森田恒友らと「パンの会」を起す。後に高村光太郎、小山内薫、谷崎潤一郎も参加。当時文壇を支配していた自然主義文学に対抗する象徴主義・耽美主義的 の拠点となる。

「パンの会」の会合ではいつも白秋の「空に真っ赤な」が合唱された。

1909年(明治42)森鴎外主催の「スバル」の創刊に参加。 同年処女詩集「邪宗門」を発表。世紀末的頽廃主義・異国情緒を ふんだんに取りいれたものであった。

同年10月杢太郎、秀雄と「屋上庭園」を創刊。

1910年(明治43)「屋上庭園」に発表した「おかる勘平」が発禁処分を受ける。「屋上庭園」は 年内に廃刊した。

1911年(明治44)第二「思ひ出」発表。故郷柳川の風俗と幼少時代の追憶を歌う。 上田敏、芥川龍之介により絶賛され一躍文名が上がる。

同年11月、文芸雑誌「朱欒(ザンボア)」創刊。

1912年(明治45)隣家の人妻松下俊子と恋に落ち、俊子の夫から姦通罪で訴えられる(後に許され結婚)。 市ヶ谷未決監に二週間拘留される。無罪免責となるが北原白秋の名声はこのスキャンダルにより失墜。 それに加え実家が破産し白秋にとって受難の時期であった。その失意の中「城ヶ島の雨」が作られたと言われる。

1913年(大正2)処女歌集「桐の花」発表。フランス近代詩的な感覚を 導入した。これにより歌人としての地位も確立。同年第二詩集「東京景物詩及其他」を発表。

同年離婚した松下俊子と結婚。神奈川県三崎に転居。11月巡礼詩社を設立。

1914年(大正3)2月俊子の肺患療養のため小笠原父島へ渡るが かえって悪化したため7月帰郷、貧窮生活の末9月俊子と離婚。

同年雑誌「地上巡礼」創刊。詩集「真珠抄」「白金之独楽」発刊。 この頃萩原朔太郎、室生犀星らとの交流が始まる。

1915年(大正4)2月弟鉄雄と阿蘭陀書房(のちのアルス)設立。 「地上巡礼」を併合した文芸雑誌「ARS」創刊。5月詩集「わすれなぐさ」 8月歌集「雲母集」を刊行。

1916年(大正5)江口章子と結婚。千葉県葛飾に転居。紫烟草舎を設立し 「烟草の花」を創刊。詩集「雪と花火」刊行。自然の中での清貧を実践し 芭蕉を慕うようになる。

1918年(大正7)小田原に転居。鈴木三重吉の児童文学雑誌「赤い鳥」童謡部門を担当。童謡の分野でも才能を発揮。 わらべ歌収集と創作民謡に取り組む。

白秋が生涯に作った童謡は1000編を超え、 成田為三、山田耕筰らによって作曲された。「砂山」(1922)「からたちの花」(1924)、「この道」(1926)「五十音」などが小田原時代に創られた。

この頃小説にも取り組む。生活がやっと落ち着き、書斎「木菟(みみずく)の家」を建てる。

1919年(大正8)歌謡集「白秋小唄集」童謡集「トンボの眼玉」を刊行。

1920年(大正9)散文集「雀の生活」刊行。「白秋詩集」第一巻刊行。章子と離婚。

1921年(大正10)山本鼎、片上伸、岸辺福雄と「芸術自由教育」(アルス)創刊。 佐藤菊子と結婚。歌集「雀の卵」刊行。

1922年(大正11)民謡集「日本の笛」(アルス)山田耕筰と雑誌「詩と音楽」(アルス)創刊。長男隆太郎生まれる。

1923年(大正12)関東大震災で「木菟の家」半壊。詩集「水墨集」発表。 閑寂枯淡の境地を開いた。「落葉松」はこの詩集に含まれる。

1924(大正13)古泉千樫、折口信夫、川田順、木下利玄らと短歌雑誌「日光」創刊。

1926(大正15/昭和元年)小田原から東京下谷区谷中に転居。雑誌「近代風景」創刊。

1929年(昭和4)「白秋全集」全18巻の刊行始める。 童謡論集「緑の触覚」、童謡集「月と胡桃」、詩集「海豹と雲」刊行。

1930年(昭和5)南満洲鉄道の招きで40日余の満蒙旅行。

1931年(昭和6)多磨郡砧村に転居。

1932年(昭和7)福士幸次郎、吉田一穂、大木惇夫らと季刊誌「新詩論」、 「短歌民族」刊行。

1933年(昭和8)岩波文庫「白秋詩抄」「白秋抒情詩抄」、改造文庫「明治大正詩史概観」を 刊行。鈴木三重吉と絶交。

1934年(昭和9)第六歌集「白南風」刊行。台湾総督府に招かれ台湾周遊。

1935年(昭和10)多磨短歌会を興し、機関紙「多磨」創刊。「浪漫精神の復興」「象徴詩運動」「近代の 幽玄体の樹立」を標榜し、現実主義に重きを置いていた当時の歌壇と対抗した。

1937年(昭和12)糖尿病、腎臓病により眼底出血のため視力を失うがますます創作への情念を燃やした。 駿河台の杏雲堂病院に入院。

薄明の中故郷柳川への激しい憧憬を歌った「帰去来」は感動を呼ぶ。

1939年(昭和14)日本文化中央連盟の委嘱で交声曲詩編「海道東征」、長唄「元寇」完成。 第七歌集「夢殿」刊行。

1940年(昭和15)杉並区阿佐ヶ谷に転居。生前最後の歌集となった第十歌集「黒檜」刊行。
最後の詩集「新頌」刊行。

1941年(昭和16)芸術院会員。

1942年(昭和17)11月2日未明、杉並区阿佐ヶ谷の寓居で逝去。享年57。 生涯の全著作は二千冊にのぼる。

北原白秋の墓は、東京都府中市・多磨霊園にある。福岡県柳川市には北原白秋記念館がある。

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