今日も薊の紫に、 棘が光れば日は暮れる。 何時か野に来てただひとり 泣いた年増がなつかしや。
夕暮れどきの薊の花の侘しさに年増(女)の姿を 連想しているのです。実際に薊のそばにそういう人がいたというより 薊の姿から呼び覚まされたイメージです。 白秋の過ごした柳川では遊女屋(柳川語でノスカイ屋)の前に薊の花が咲いていました(「柳川」「立秋」)。 よって「薊」といえば白秋にとって「遊女」を連想するイメージだったと考えられます。
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