砂山
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海は荒海、
向うは佐渡よ、
すずめ啼け啼け、もう日はくれた。
みんな呼べ呼べ、お星さま出たぞ。
暮れりや、砂山、
汐鳴りばかり、
すずめちりぢり、また風荒れる。
みんなちりぢり、もう誰も見えぬ。
かへろかへろよ、
茱萸(ぐみ)原わけて、
すずめさよなら、さよなら、あした。
海よさよなら、さよなら、あした。
解説
「砂山」が創られた経緯は北原白秋自身が「日本童謡ものがたり」で詳細に説明しています。
白秋は大正十一年(1922)六月十二日、「新潟市児童音楽研究会」による「白秋童謡音楽会」に招かれ新潟を訪れます。
白秋の童謡のみを歌う音楽会です。師範学校の講堂に集まった2000人の小学生を前に、白秋は
「兎の電報」などを歌って喝采されます。
音楽会のあと寄居浜に足をのばした白秋は日本海と砂丘の風景に
強い感銘を受け「砂山」の着想を得たといいます。
「六月のなかごろに、わたしは、越後の新潟にいってまいりました。わたしがいくと、新潟のこどもたちは、ひじょうによろこんで、わたしのために童謡音楽会をひらいてくれました」
(「日本童謡ものがたり」)
小田原に戻った白秋はすぐに「砂山」を創り「日本のフォスター」と呼ばれた中山晋平に作曲を依頼します。
雑誌「小学女生」大正11(1922)年9月号に発表。後に白秋の童謡集「花咲爺さん」(1923)に収められました。
中山晋平の曲は子供にも親しみやすい感じのんびりした民謡調。注には「野趣をこめて」とあり、新潟地方独特の砧のリズムが取り入れられています。
翌年山田耕筰が別の曲を作曲。こちらは格調高く、声楽家に好んで歌われました。
戦後、中学校の音楽教科書に採り上げられ、どちらの曲もよく知られるようになりました。
他に成田為三、宮原禎次の作曲があります。
「茱萸原」という言葉は中山晋平の自筆曲譜では「ぐみはら」、山田耕筰のでは「ぐみわら」となっています。
鶴見正夫は「砂山」と芭蕉の句「荒海や佐渡によこたふ天の川」を対比しながら「砂山」の独自性を強調しました。
「白秋は芭蕉と同じに詩人の目でものを見つめながら、それをみごとに童謡という子どもの世界に描きあげ、 うたいあげたのだ。ことに『スズメ』と『グミ』をとりいれ、最後の一節に『さよなら、あした 』とうたったのは、私にはさすがと思えてならない。寂りょうの風景だけでは童謡の世界は成り立たないからだ」(「童謡のある風景」1984)
新潟市中央区西船見町の護国神社境内の松林に「すなやまの碑」があります。碑文は全部ひらがなです。子供でも読めるようにとの配慮でしょうか。昭和36年6月建立。
「砂山」には砂でできた小高い岡と、子供が砂で作った小さな山の意が
懸けられているようです。新潟市港南区に「砂山」という地名がありますが、
この歌とは関係ないようです。
私は最初「(立ち)向かうは佐渡よ」と思い、いさましく佐渡島に
舟で突進するのかと思いました。全然違う話でした。(海の)向こう側には
佐渡がある、ということでした。侘しい感じが出るよう朗読しました。
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